" 既存の俳句の「雪」や「桜」、歌舞伎の「色悪」、アニメの「眼鏡女子」といった「型」は文化的な蓄積であり、たしかに魅力のリソースである。現実の雪や桜や眼鏡女子を見たときに、私たちはそういう「型」をつい投影してしまう。そのことにはそれなりの味わいというものがあり、美というのはそういう一面を持っている。
いっぽう現実のカギカッコなしの雪や桜や眼鏡女子には、そういう既存のイメージ群からはみ出す要素だっていくらでもあるはずだ。それを発見して作品に反映させるということが写生と呼ばれている。
それを「現実を写す」文字どおりの「写実」「写生」と考えるのはバカのすることだ。それなら写真のほうがまだしも精度が高い。まあ写真だってぜんぜんほんとうじゃないんだけど。ていうかなにがほんとう?
「実」ってなに? ついでに訊くけど僕って何? 現実の雪や桜を見るのは、そのほんとうの姿を記述するためではない。
現在の雪や桜を見るのは、いままで言われなかった表現(既存の「型」に含まれない表現、あるいは日常あまり言われない表現)を見つけるためなのだ。
つまり(繰り返す)現在の雪や桜を見るのは、その「ほんとうの姿」とやらいうシロモノを記述するためではなく、既存の「型」の蓄積という巨大な山の上に新ネタという小石を載せることができたらいいな~、という感じで見ることなのだ。現実を見るのは現実を報告するためじゃなくて、言葉のレパートリーを広げるためとしか私には思えませんけどね、どう考えても。"